戦旗派とは──共産同(戦旗派)および戦旗・共産同について

 トップページで記したように、このサイトでいう「戦旗派」とは、1970年代から1990年代にかけて「共産主義者同盟(戦旗派)」および「戦旗・共産主義者同盟」という呼称で活動した新左翼の一団体をさします。歴史上では、1920年代のプロレタリア文学運動における『戦旗』派や、1960年安保闘争をたたかった第一次ブント分裂時の「戦旗派」などもありますが、それらとは関係ありません。1966年に再建された共産主義者同盟(第二次ブント)と社会主義学生同盟全国委員会が、1970年安保・沖縄闘争を前後して分裂していく過程で、共産主義者同盟の一分派という意味で「共産主義者同盟(戦旗派)」を名のった、その一派の歴史を、写真を通して記録しようというのがこのサイトの趣旨です。

 さて、上記のごとく、戦旗派という呼称は、それだけでは対象を特定しにくい煩らわしさ・紛らわしさを伴っています。1970年前後の第二次ブント分裂時には、赤軍派に対する「戦旗派」、叛旗・情況派に対する「戦旗派」という呼び方もありました。共産主義者同盟の機関紙が『戦旗』だったので、分派に対する「中央派」ないし「書記局派」の仮称ともなったようです。
 ともあれ、呼称問題はこの程度にして、このページでは、1970年〜1990年のいくつかの結節点に絞って、写真では表現しえない戦旗派の歴史を注記しておきます(人名:敬称略、主に筆名。派名は自称・俗称混淆)。
 第二次ブントの1970年分裂と「戦旗派」
 1973年 「戦旗派」の分裂
 1980年 戦旗・共産主義者同盟への改称
 【メモ】「ブント」と「ブンド」

第二次ブントの1970年分裂と「戦旗派」

 1969.7.6赤軍分派後の第二次ブントは、もともと強力な主流派を欠いていたこともあって諸グループや地方での独自化や合従連衡のような状態がいっそう進みました【革共同中核派や革マル派、社青同解放派などは、比較的強力な主流派が存在していたのかも知れません。ML派や構造改革系も、強力な主流派が不在の場合は分裂・消滅の道を歩みました】。
 1969年1月の東大安田講堂攻防戦や4.28以降の安保・沖縄闘争で学対・社学同中枢部が相次いで投獄され、さらに残る学生の半数ほどが赤軍派にいき、学生・高校生組織は混乱の極致となります。そんな中で、さほどの動揺もなく、図らずも首都圏での主流派的位置に付いてしまったのが中大ブント系の叛旗派でしょう。逼塞していた明大独立社学同系の情況派も、明大の左派部分が大方いなくなってしまったので生気復活。関西では、関西上京組を中心とした赤軍派以外の残留学生は赤ヘルノンセクト化し、大阪中電などの労働者組織を中心とした「関西ブント」へと回帰しつつありました。佐々木書記長やそのほかの東京残存学対などの努力にもかかわらず、1969年秋期安保決戦は不完全燃焼におわり、出獄した藤本敏夫(反帝全学連委員長)なども離脱していく、といった苦境のなかで1970年を迎えることになります。

 1970年初め頃の第二次ブントは、中央機関紙の『戦旗』とは別に、地方・府県・地区委員会などの機関誌が数多く発行され、それが各グループの結集軸となっていました。その後数年の分岐や行方も含めて大雑把にあげると、
『戦旗』『共産主義』 共産主義者同盟発行(第一次ブントの機関紙誌名を継承)。1969-70年頃の『戦旗』編集発行人は佐々木和雄・野田晋らで、中央の書記局・編集局が諸派を調整。総武線水道橋駅近く(千代田区三崎町2-7-6)滝沢ビル地下1階にあった事務所(戦旗社)が各派の争奪対象になったことも。
『叛旗』 東京・三多摩地区委員会(1968/11創刊)。三上治・神津陽(中大ブント)ら→1970年6月、叛旗派結成(6月11日、東京池袋の豊島公会堂で開かれた共産同政治集会のさなか、叛旗・情況連合が戦旗派連合にゲバルトを仕掛け、分裂確定)。青山学院大学初め首都圏や全国の学生の中にシンパ層は多かった→1975年三上退派→1976年末自主解散。【9.16東峰十字路戦被告らの救援などを目的として発足したと思われる「旧叛旗派互助会」は、神津らを中心に今も存続】
『鉄の戦線』 東京・南部地区委員会。8回大会議長・仏徳二(さらぎ とくじ)ら。南部地区や専修大社学同、医学連の学生など→1970.12.18「蜂起戦争派」→「鉄の戦線」派→蜂起派(機関紙『蜂起』、共産主義者同盟発行)と蜂起左派(佐藤秋雄ら→共産同プロレタリア通信編集委員会)などに分岐。【→1998年頃、仏徳二離脱、機関紙を『赤星』に変更→2009年3月、槙渡&赤井隆樹(共産同蜂起派)らが、畑中文治(情況派系流の共産同首都圏委)、旭凡太郎(神奈川左派→共産同プロレタリア通信編集委員会)らとともに「共産主義者協議会」(機関紙『赤いプロレタリア』)を結成】
『左派』 神奈川県委員会(1970/1創刊)。旭凡太郎(関西上京組・7回大会政治局員)ら→1970.12.18「蜂起戦争派」→(神奈川)「左派」派。【→その後、共産同プロレタリア通信編集委員会(「豊島グループ」。消息通によれば、蜂起左派と赤報派少数派が合流)→2009年、上記「共産主義者協議会」】
『烽火』 関西地方委員会(1970/8再刊1)→1970.12.18「蜂起戦争派」→「烽火」派→共産主義者同盟全国委員会(烽火派)と、榎原均ら「赤報」派=共産主義者同盟(RG)などに分岐。【→2004年、全国委派は戦旗西田派と組織合同、共産主義者同盟(統一委員会)を名乗る】
RGはドイツ語Rote Gewalt(ローテ・ゲヴァルト。直訳「赤い威力」「赤い暴力」。意訳「共産主義突撃隊」)の略でエルゲーと読む。もともとは、一向健(関西上京組・7回大会政治局員、塩見孝也赤軍派議長)らの発案。1969.4.28沖縄闘争で前夜から御茶の水のMD(東京医科歯科大)を武装占拠し、機動隊の壁を破って秋葉原駅→首都中枢へ突撃した社学同ほかの部隊に名付けられた。その後、一向健らはより軍事色の強い「赤軍」建設へと向かい、他方、赤軍派分裂後のブントでは1969年秋期安保・沖縄決戦にむけて、叛旗・情況系をのぞく各派が少数精鋭軍の意味合いを持たせて「RG」を組織した。のち、榎原均らが烽火=関西派からの分裂にさいして、自派名に利用。
蜂起戦争派は、1971.4.28沖縄デーのさい、東京・清水谷公園で共同集会を持った12.18連合ブント(神奈川左派・関西地方委派・さらぎ派の三派)、共産同赤軍派、京浜安保共闘や、赤ヘル系ノンセクトの同志社大学全学闘・京都大学C戦線などの共同戦線の自称で、分派的名称では必ずしもない[さらぎ派は集会参加せずデモのみ合流?]。日比谷公園西幸門口で戦旗派と激突(→1971年参照)したのは、組織としては12.18連合ブントのみだった。
『理論戦線』 社会主義学生同盟→共産主義青年同盟理論機関誌。野田晋(「戦旗」編集局長)、日向翔(社学同委員長)、伊勢洋(学対)、城山徹(同)、村中泰、赤井文人、西田輝ら、のちの戦旗派を形成する主要メンバーが執筆。「理論戦線派」という他称はこの機関誌名から。
 なお、情況派(明大独立社学同→6回大会議長・松本礼二、同学対・古賀暹ら)は1970年6月の分裂後、機関紙『ローテ』(共産主義者同盟再建準備委員会)を発行。【のち、松本礼二は『遠方から』を発行。古賀暹は1990年、廣松渉と共に第2期『情況』創刊。情況派系は遊撃派→革命の旗派→赫旗派などの変遷を経て、系流の一派=首都圏委員会が2009年、上記「共産主義者協議会」を結成】

 これら以外に、B4サイズの藁半紙にガリ版刷り・ホチキス綴じの「機関誌紙」も数多く出されており、そのなかで、のちの戦旗派の結集軸となったのが、
『赤きテキサス』 東京・西部地区反帝戦線発行。
 これは、1969年秋「安保・沖縄決戦」後の首都圏の学生・高校生組織の一部と東大闘争保釈組などとが結合した「妖雲亭」フラクションによる発行で、主要論文はのちに『理論戦線』に収録されました。関西・中央の諸グループに距離を置く、九州・北海道・愛知などの諸組織もこれに連携して「連合党から単一の中央集権党」をめざす潮流が形成され、新たに作られた「青学組織委員会」がその結集軸となります。そして1970年6月叛旗・情況派、12月「12.18連合ブント」(蜂起戦争派系三派=関西地方委派・鉄の戦線派・神奈川「左派」派)との分裂を経て、1971年4.28日比谷公園での会戦勝利後、戦旗派は「分派闘争の止揚と対権力闘争への転換」を宣言し、ブントの一分派という意味で共産主義者同盟(戦旗派)と称したのでした。

 しかし、それによって分派間や諸派との武力衝突(ゲバルト)が解消したかといえば、否。これ以降、沖縄返還をめぐる数々の対権力闘争を展開していく一方で、1970年前半の赤軍派やML派(ブントの流れを汲む毛沢東派「マルクス・レーニン主義者同盟」、1970年6月以降分裂・消滅)、後半〜71年4.28までの叛旗派、4.28以降の蜂起戦争派系諸派や情況派、さらにノンセクト(明治大学新聞会=MUP共闘など)とのゲバルトが1973年初頭まで断続していきます(MUP共闘襲撃および「破防法裁判闘争を支える会」K氏への襲撃は後に『戦旗』紙上で自己批判)。その過程で、戦旗派には内部分裂の芽も生まれていたのでした。

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1973年「戦旗派」の分裂

 1973年6月、神奈川県下▽▽ランドで開催された第12回中央委員会で共産主義者同盟(戦旗派)は事実上分裂します(10月確定)。1970年初頭、「妖雲亭」フラクション以来の戦旗派第一期建設はここに頓挫し、再出発を迫られたのです。組織の在り方や武装闘争・路線問題を巡る対立点や弁明は、その後、各派から表明されました。その内容は煩瑣な上、当時の中央委員らの動きのいちいちを知る由もなく、加えてここは正統を云々する場でもないので、外形的に俯瞰しておくことにします。
 ちなみに、この時期の組織は、大会─(拡大)中央委員会─(常任)中央委員会のもとに、各地方・地区委員会が運営されており、「第○回」と付される(拡大)中央委員会は、常任の中央委員と地方・地区の代表によって構成され、同盟員大会が開かれていない当時は最高の決定機関となっていました。

 時系列的にふり返ると、1972年末には渋谷グループ(→国際主義派)が、1973年3月には「足立商会」グループ(西田・大下・城山→西田・大下派と城山派に分岐。足立商会はこのグループが構えた事務所の仮名)が形成されます。西田らによれば、これは1972年夏以降の「日向中央派による分派的組織運営への対抗」とされていますが、日向らによれば「西田らがそれぞれの担当地区・地方を囲い込み、Nc の官僚的運営に対する反発をも利用して分派を形成した」ということになります。
 また、各分派の勢力概要を図式化すると、以下の通り(地区などは多数派を分類、少数は不記。重複はほぼ二分の場合。★は概数比。各派名称は発行機関紙誌名に「派」を付けた)。

戦旗派(日向他) 東京西部、埼玉、神奈川、愛知、中国(鳥取) ★★★★★★★★
戦旗派(西田他) 東京中北部・南部・東部、神奈川、中国(山口)、九州、沖縄、三里塚現闘団、部落解放戦線 ★★★★★★★★★★★
プロレタリア戦旗派(城山他)  北海道 ★★★★
国際主義派  首都圏の学生・労働者の一部 ★

 1973年分裂で特記すべきことは、内ゲバ(武力衝突)へと至らなかったことでしょう。その後、殴り合いなどが皆無だったとは言えませんが、互いに他派の武力的消滅・物理的解体を目的化することはありませんでした。1970年前後から激烈化・常態化していた新左翼内部の内ゲバへののめり込みを回避すべく舵を切ったこと──、戦旗派的にはMUP共闘襲撃への自己批判など、独断的セクト主義・内ゲバ主義的偏向への反省の具体化として、その後の経緯のなかで積極的に評価しています。ま、それはその通りだが、ちょっと格好良すぎるか? 喪った仲間、そして苦楽を共にした仲間が、分裂に至る過程やその前後に相次いで戦旗派を去っていった……。もともとベトナム反戦や安保・沖縄問題、学園闘争などを契機にブントに結集した戦旗派活動家の精神は、諸派・ノンセクトとの内ゲバやあいつぐ組織の分裂で消耗・疲弊しきっており、もはや権力とたたかう以外の気力も部隊も残ってはいなかったし、内ゲバ無しなら活動を続けようと考えた者も多かったはずです(それによって傷が癒えることはないとしても)。そして、1974年7.7「血債・猛省」をかかげた政治集会で再出発を決意し、狭山差別裁判糾弾闘争、反天皇闘争、三里塚現闘団の再建など、多くの人々に学び・支えられ・鍛え直しながらの戦いに向かっていったのでした。
 なお、この過程で、戦旗派は機関紙『戦旗』の自力印刷発行体制を整備していきます。当初は和文タイプ、やがて写真植字機を導入し、印刷機を備え、B4判のホチキス綴じという時代がしばらく続きます。それがようやく新聞の体裁(タブロイド判)となるのは、戦旗・共産主義者同盟への名称変更後の1980年暮れもおしつまった頃でした(1981年新年号)。
 最後に、1973年分裂諸派のその後を簡単に記しておきます。

戦旗派 共産主義者同盟(戦旗派)→1980年「戦旗・共産主義者同盟」に改称→1993年「共産主義者同盟」→1997年「ブント」(革命戦略としての共産主義を放棄)→2008年「アクティオ・ネットワーク」(平和・環境団体へ変貌【共産主義者同盟&ブントの解消】)
戦旗派 共産主義者同盟戦旗派【戦旗派にカッコ( )が付いていなかった、かな?】→2004年、共産主義者同盟 (全国委員会)=烽火派と統合し、「共産主義者同盟 (統一委員会)」を名のる。機関紙は『戦旗』に統合。
プロレタリア戦旗派 プロレタリア戦旗編集委員会・共産主義者同盟(戦旗派)北海道地方委員会→1976年「北海道共産主義者同盟」→
国際主義派 「国際主義」編集委員会→日本共産党(行動派)→

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1980年 戦旗・共産主義者同盟へ改称

 名前って重要だなぁ。現在のアクティオ代表もどこかでそんなことを言ってたっけ。
 時代・路線・人的要素などなどを無視するな! と怒られるかもしれませんが、戦旗派が組織的飛躍を遂げたのが、「戦旗・共産主義者同盟」と改称した1980年代に入ってからであったことは紛れもない事実でした。
 1973年分裂時、「足立商会」グループ(戦旗西田派)の後塵を拝していた戦旗派が、1974年7.7集会を機に再出発し、1975-76年頃には組織的にやや上回る勢力に回復していたとはいうものの、分裂から7年経てもなお二つの「戦旗派」と二つの『戦旗』が存在する状況は、双方にとってどうだったのか。三里塚集会などでは両派とも赤いヘルメット、旗も横断幕も戦旗派、せいぜいゼッケンが多少違うだけだから大変紛らわしい。結集したてのメンバーなどは当然のごとく混乱せざるをえなかったでしょう。
 しかし、名称=正統派争いとすれば、相手に改名を迫ったところでどうなるものでもない道理、選択肢は自ら改名することしかないのは世の習い。とはいうものの、「アクティオ」のように内容がまるっきり変わってしまうのと違って、基本は継承なので「戦旗」も「共産主義者同盟」も棄てがたい。浮かんでは消える名前案(というより迷案)……、あれこれ議論の末、「戦旗・共産主義者同盟」への改称案が採択されました。
 時に1980年1月(だったと思います)、都区内で開催された第1回同盟員総会でのこと。「戦旗」と「共産主義者同盟」のつなぎを「・」(ナカグロ)にするか、「-」(ハイフン)にするか、などという、決まってしまえば瑣末となるような問題もまっこと真剣に議論されたのでした。名称変更とともに新規約も採択し、組織や路線・政策の基本なども決定しました。ブント系の一分派とか、二つある戦旗の片割れというような、いわば呪縛から解き放たれたかのように、これ以降、戦旗・共産同の飛躍的伸張が始まります。同年6月には社会主義学生同盟を再建し、1980年韓国・光州民衆蜂起連帯の安保・日韓闘争、1983年反対同盟の分裂を前後しながらの三里塚二期阻止闘争、反天皇制闘争などをめぐるゲリラ・パルチザン戦闘と連携した大衆的実力闘争を展開しつつ、機関紙『戦旗』のタブロイド判化→ブランケット判化や本部ビル建設など、組織的にも大きく前進していきます。
 この同盟員総会は事実上、戦旗・共産主義者同盟の大会に相当します。なのに、なぜ大会ではなく総会なのか? 「大会は共産主義者同盟の再建大会=10回大会でなければならない」(第二次ブントの大会は、再建の6回大会〜1969年9回大会までなので、次は10回大会)という意識が多少ともあったためでしょう【かつて、理論機関誌名をブント機関誌の『共産主義』とせず、自分たちの出自たる社学同全国委の『理論戦線』としたのも同様】。もっともそれは、「第2次ブント系諸派・個人の大結集による再建」ではなく、戦旗・共産同自身の党派的伸張を基盤にして、というのが共通認識でした。第2次ブント系の諸派・個人の一部には、こうした考えを指して「日向革マル主義」などとする批判もあるようです。第2次ブント総括の視点や状況認識の違いのしからしむるところでしょう。1980年代を通じて、ブント系諸派のなかには、野合的な離合集散を繰り返しながら「党派」を名のる人たちがいたことも確かです。しかし、野合して「党」を名のったりせず、異なる綱領・規約を有した党派が共通の課題を前に結成する統一戦線という形態をとっていれば、各々の系譜はもう少しスッキリ理解しやすいものとなったのではないか、などという老婆心はいらぬお世話。
 10数年後の1993年8月、北海道で開催された同盟員総会での「共産主義者同盟」への改称が、戦旗派自身の変容への最初の小さな舵切りになろうとは、もちろんその当時は知る由もなかった……。

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【メモ】 「ブント」と「ブンド」(Bundの読みについて)
 共産主義者同盟の略称「ブント」は、もともとドイツ語「Bund」(=同盟)の音読みをカタカナ表記したもの
 ドイツ語で「党」はParteiと表記し「パルタイ」と読む。1950年代、日本左翼のなかでパルタイといえば日本共産を指した。第一次ブントが、パルタイ(党)への対蹠として「ブント」(同盟)という呼び方を通称として用いたのは、マルクス・エンゲルスが1847年、それまであった亡命者組織を改組して結成した「共産主義者同盟」(der Bund der Kommunisten)の原点と当時の日本新左翼運動をつなごうとする思惑があったと思われる【なお、英語ではCommunist Leagueと訳される】。
 ところが、日本の新左翼関係者などに、Bundを「ブン」と読む人が時々いるのはなぜだろう? 
 Bundをローマ字風に読んだ(「d」→「ド」)のか、あるいは「ブント」だと語調が弱いと思った(最後の「ト」を「ド」にすると力強い?)のか、それとも(後述の)レーニン『なになす』好きが昂じて「ブンド」読みとなったのか、ブントの連合党的性格をレーニンが批判した「ユダヤ人ブンド」になぞらえて批判的蔑称としようとしたのか? さらには、単なる外来語取込における日本的な曖昧さのなせる業であるのか???(そういえば、国名自体、ニホンとニッポンが共存している)
 他に、Wikipediaによれば、イディッシュ語では「bund」を「ブンド」と発音するそうで、たしかにロシアの革命家・レーニン『なにをなすべきか?』の邦訳などに「ユダヤ人ブンド」と日本語表記される組織(ロシア社会民主労働党の結成に参加したユダヤ系労働者の組織)が批判対象として登場するけれど、まさか、日本の左翼関係者がBundという表記に限ってイディッシュ語読みを意図的に選択しているとも思えない、なんとも不思議なことである。
 ともあれ、しかし、今まで「ブンド」と発音・表記してきた方がもしいらっしゃったら、これからは「ブント」と呼んでくださるようお願いします。

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